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たとえば僕の人生に、一輪の花が咲いたら

​作:月宮はる

​利用規約をご一読ください。

 

※PCでの表示推奨

【所要時間】

​約110分

 

【登場人物】

 

津田貴雅(つだ たかまさ)(33)

錦坂高校の現代文講師。

実家はアジアにも展開する高級ホテル『フェリースホテル』を経営しているが

次男であることや「自分」の価値に息苦しさを感じている。

 

杉田弥生(すぎた やよい)(24)

花屋『Bloomy Farm』で働く明るく穏やかな性格の女性。

しかし毎週金曜日と土曜日は『Rouge』という風俗店で働いている。

父親に虐待されていた過去を持ち、今は蒸発した父の借金を返済している。

 

日比野真弓(ひびの まゆみ)(28)

日本国内でも大手の家電メーカーの娘。

現在は科学系の研究室で働いている。

とてもリアリストであり、恋や愛などの漠然とした感情に興味がない。

 

田口由里子(たぐち ゆりこ)(42)

花屋『Bloomy Farm』の店主。

おおらかな性格で、弥生のことを可愛がっている。

 

間宮透(まみや とおる)(28)

錦坂高校の数学教師。

はつらつとしたノリのいい性格だが、所々抜けている楽観主義者。

貴雅のことを尊敬している。

※「客」と兼ね役

 

永井伸宏(ながい のぶひろ)(34)

風俗店『Rouge』のオーナー。

来るもの拒まず去るもの追わず主義。好きなものはお金。

※「弥生の父(回想)」・「通行人A」兼ね役

 

ミキ(22)

風俗店『Rouge』で働く弥生の同僚であり、人気ナンバー2。

頻繁にホストクラブに通っており、そこで使うお金を稼ぐために働いている。

出勤日数も少なく、仕事への態度も気に入らない弥生を敵視している。

※「Aの子」兼ね役

 

*セリフ量に大きくばらつきがあります。

​ 一部セリフが並ぶ箇所がございますが、間宮と永井の兼ね役も可能です。

*今作に登場する人物名・施設名等は全てフィクションです。

 実際の人物や建物とは関係ありません。

 

​(よろしければ、上演時は以下をコピペしてお使いください)

 

『たとえば僕の人生に、一輪の花が咲いたら』

​作:月宮はる

https://harutsukimiya.wixsite.com/voice/life-flower

【配役表】

津田貴雅:

杉田弥生:

日比野真弓:

田口由里子:

間宮透:

永井伸宏:

ミキ:​

 

生花『Bloomy Farm』店内。花の水切りをしている弥生と店の扉を開ける貴雅。

 

001 弥生    いらっしゃいませ

002 貴雅    あの、すみません、花束を一つお願いしたいんですけど…

003 弥生    かしこまりました。…女性への贈り物、でよろしかったですか?

004 貴雅    (少しはにかみながら)はい、お願いします。

005 弥生    承知しました。その方の好きなお色や、大体のご予算などがあればお伺いしますよ。

006 貴雅    そうですね…色は、水色や緑のイメージでお任せしたくて、予算は大体、5〜6000円くらい目安でも大丈夫ですか?

007 弥生    はい、そのくらいのお値段でしたらある程度ボリュームもある花束になるかなと思います。

       ご用意ができましたらお声がけしますので、少々お待ちください。

貴雅、軽く会釈をする。弥生、花束を作り始める。

しばらくして花束をかけた弥生が貴雅に声をかける。

 

008 弥生    お待たせいたしました。こんな感じでいかがでしょうか?

009 貴雅    すごく素敵です。ありがとうございます。

010 弥生    お気に召していただけてよかったです。それではお会計をさせていただきますので、こちらへお願いします。

貴雅、花束の中にある小さな花に目をやる。

 

011 貴雅    この花、綺麗ですね。

012 弥生    あぁ、ブルースターですね。可愛らしくて、私もすごく好きな花なんです。

                     花言葉は、『幸福な愛』や『信じ合う心』っていうみたいですよ。

013 貴雅    (小さく呟くように)幸福な、愛…

014 弥生    それではお会計が5460円になります。

015 貴雅    あ、カードでお願いします。

016 弥生    かしこまりました。

会計を終え、貴雅は店から出る。それを見送る弥生。

 

017 弥生    ではこちらお気をつけてお持ちください。喜んでいただけるといいですね。

018 貴雅    はい、ありがとうございました。

019 弥生    ありがとうございました。またお越しくださいませ。
 

020 貴雅M  フランスの詩人、ジャン・ド・ラ・フォンテーヌはこんな言葉を残している。

      「人は、運命を避けようとしてとった道で、しばしば運命にであう」と。

      あまりにも巨大な夜の中で、ほんの一瞬光り輝く星を掴むように難しいことであったとしても、

      その刹那の光は、心の中で絶えず行く道を示してくれるものだ。

      一つの花が結びつけた運命の行き先を、僕たちはまだ知らなかった。



ホテルの最上階にあるレストラン。貴雅と真弓が窓際の席で向かい合って座っている。

 

021 真弓    おいしかった。やっぱりここのお料理はいつ食べても美味しいわね。

022 貴雅    よかった。僕もあまりお店に詳しくなくて、いつも似たようなところばかりでごめん。

023 真弓    ううん、こうしてゆっくり食事をしたのも久々だったし。

024 貴雅    あぁ。…最近、お義父さんやお義母さんはどう?元気にされてる?

025 真弓    えぇ、みんな変わりなく。貴雅さんはまだお仕事忙しい?

026 貴雅    そろそろ期末試験の準備って感じかな。

             まだ少しバタバタしそうだけど、これが終われば冬休みだし、ゆっくりできそうだよ。

                     なかなか一緒にいられる時間もとってあげられなくて、申し訳ない。

027 真弓    いいのよ、頑張ってるんだもの。

                     いつも思うけど、高校の先生って想像するだけで大変そう。

                     私みたいに研究室にこもってると、人といっぺんに関わることもあんまりないから。

028 貴雅    まぁ、僕の場合は親にわがままを言って、好きでこの仕事をやらせてもらってるしね。

                     文学にもずっと触れていられるし、むしろ贅沢だと思ってるよ。

029 真弓    本当に真面目ね、そういうところ。

                     ………あ、休みに入ってからで全然構わないんだけど、父と母があなたに会いたがってるの。

                     前からそれとなく話してたけど、式の日程とか、諸々決めていきたいって。

030 貴雅    そう…だよな。わかった。僕の仕事が落ち着いた頃を見て、またご挨拶に伺うよ。

                     僕の父さんと母さんも、真弓さんに会いたがっていたし、またお互いの予定を見て日を決めようか。

031 真弓    うん、わかったわ。

032 貴雅 ……そうだ、今日はちょっと渡したいものがあって。…これ。

貴雅、真弓に花束を差し出す。

 

033 真弓    え、何……、花束…!どうしたの、これ?

034 貴雅    二人での夕食も久しぶりだし、食事だけっていうのもなんだか味気ない気がして。

035 真弓    すごく綺麗…本当にありがとう。

036 貴雅    喜んでもらえてよかった。………そういえば真弓さん、明日は仕事?

037 真弓    明日…どうして?

038 貴雅    いや、その…帰る時間遅くなっちゃうし、今からでも支配人に連絡すれば、ここの部屋、用意してもらえるから。

039 真弓    (何かを察したように)あっ……ごめんなさい、明日、仕事はないんだけど、朝からお友達と出かける約束があって。

040 貴雅    いや、もちろん無理にとは言わないよ、帰りは送るし、先約があるならそっちを大事にして。

041 真弓    ありがとう。また近々貴雅さんのおうちにもお邪魔するから。

042 貴雅    うん、わかった。…この一杯いただいたら、そろそろ出ようか。

043 真弓    えぇ。



弥生、田口(『Bloomy Farm』店主)花屋の店じまいをして扉の鍵を閉める。

 

044 田口    弥生ちゃん今日もお疲れ様。いつもラストまでありがとうね。

045 弥生    いえ、ここでの仕事本当に楽しいので。店長もお疲れ様です。

046 田口    そう言ってもらえて心強いわ。今週もいつも通り、金土休みでいいのよね。

047 弥生    はい、それで大丈夫です。

048 田口    わかったわ。ここでもたくさん働いて、休みの日は親戚のベビーシッターだなんて大変ねぇ…

049 弥生    まぁ……子どもは好きなので。

050 田口    あまり無理はしすぎないようにね。

                     あ、今月分のお給料、もう入ってるから、また確認してみて。それじゃあ、気をつけて帰るのよ。

051 弥生    ありがとうございました。明日もよろしくお願いします。

052 田口    うん、また明日ね。

弥生、帰り道にあるATMに立ち寄り、口座残高を確認する。
そこに表示された金額に、ため息をつく。

 

053 弥生    後、少し…。

弥生、駅前の大通りを歩いている。父母子の家族連れが通りかかる。

 

054 通行人A 今日の夕飯何が食べたい?

055 Aの子  ハンバーグとスパゲッティとオムライス!!

056 通行人A そんなにいっぱい食べられないでしょ〜(笑)
 

057 弥生    家族、か…



昼、貴雅の勤務している高校の職員室。同僚の間宮が話しかけてくる。

 

058 間宮    津田先生、お疲れ様です。

059 貴雅    あ、間宮先生、お疲れ様です。

060 間宮    あの、先生って期末試験の準備いつ頃から始めてます?

                     僕この時期いつも寝不足になるんですよねぇ…ほんと、試験の問題作成ほど辛いものってなくないですか…

061 貴雅    僕は既存の作品をいくつか引用して問題を添えるだけなんで、結構サクサク進んじゃうんですけど…

                     そっか、数学みたいに一から問題を考えるってだいぶエネルギー使いますよね。

062 間宮    うーーん、でもなんか、津田先生って何から何までスマートにこなせちゃいそうなところありますけどね。

                     仕事も、「プライベート」も充実してそうですし。

063 貴雅    そんなことは…まぁ。

064 間宮    あ!否定しない!いいですよね〜。

065 貴雅    僕は周りに恵まれてるだけで、僕自身の力だけで何かを手に入れたりとかって本当にないんですよ。

                     ありがたい限りなんですけどね。

066 間宮    そういう謙虚なところもまた魅力的に映っちゃうんですよ。

                     津田先生に婚約者がいるって聞いて、がっかりしてる教師陣、実は結構多いんですから。

067 貴雅    やだな、間宮先生、買い被りすぎですよ(笑)

068 間宮    ま、僕は津田先生みたいに「上品路線」にはいけないですけど、職場の後輩として、これからも勉強させてもらいます!笑

069 貴雅    僕なんかで参考になるなら(笑)…あれ、そういえば間宮先生、今日はお昼休み、部活のミーティングないんですか?

070 間宮    あー、ナンプレ部は部員も少ないですし、そのへん結構不定期なんですよね。ま、僕も気楽なのでいいんですけど…

                     …ん、そういえば津田先生っていつもコンビニ弁当ですよね。彼女さん、作ってくれたりしないんですか?

071 貴雅    まぁ…婚約者って言ってもまだ同棲もしてないし、するとしたら結婚した後になると思うから。

072 間宮    へぇー、なんか今時珍しいですよね。

                     でも、たしか津田先生、おうちがなかなかにビッグなんでしょう?

                     結婚とかも、ちょっと普通の感覚と違うんですかね。

073 貴雅    まったく…どこでそんな噂が広がってるんだか。

                     僕は普通の教師だし、結婚も、まぁたしかにお互いの両親のことは気にはかけるけど、それは誰だって同じじゃないかな。

074 間宮    まぁ…そうですけどね。じゃあ、今の婚約者さんも結構いいとこの人なんですか?

075 貴雅    いいとこ…なんていうか、うちは両親が昔から知り合いだったから。

                     幼馴染みたいなものかな。よくあるでしょ、幼馴染と付き合って、そのまま結婚みたいな話。

076 間宮    えーーなんかいいなそういうの、映画みたいじゃないですか!

077 貴雅    実際はどこまでも現実だよ(笑)

                     付き合いが長くなればなるほど、お互いの存在には慣れちゃうしね。

                     まぁ、だからと言って大事なことには変わりないんだけど。

078 間宮    あれ、今サラッと惚気ました?

079 貴雅    惚気てない(笑)ほら、早く食べないと授業始まっちゃいますよ、間宮先生、たしか5限入ってましたよね?

080 間宮    うわやばい、話しすぎました、ちょっ、急いで食べます!笑



新宿歌舞伎町。煌々とネオンが光る賑やかな通りを歩く弥生。
『Rouge』の関係者出入り口の扉を開け、スタッフルームに入る。

 

081 弥生    お疲れ様です。

痩せ型・眼鏡姿の男、永井(『Rouge』の店長)が笑顔を見せる。

 

082 永井    おぉ弥生ちゃん、お疲れ様。今日も早速5件の指名が入ってるよ。頑張ってね。

083 弥生    はい、よろしくお願いします。

084 永井    弥生ちゃんさ、もうこの店に入って半年は経つでしょ?

                     うちみたいな店もだんだん減ってきてるけど、弥生ちゃんが入ってきてくれてから売り上げ伸びてるし、

                     次のボーナスはしっかり上乗せするから。

085 弥生    ありがとうございます、頑張ります。

086 永井    弥生ちゃんは週2出勤だから、それに合わせて予約を入れてくれるお客さんも多くてね。

                     うち本番禁止なのに、どうやって引っ張り込むのか、僕も体験してみたいくらいだよ(笑)

087 弥生    ……。

088 永井    じゃ、今日もよろしくね。

永井、スタッフルームから退出。

 

089 弥生    (ため息)……あと少し、あと少しだから。



弥生、『Rouge』での仕事を終え帰宅する。

 

090 弥生    …ただいま。

弥生、コンビニの袋からカフェオレと小さなケーキを取り出し、棚の上にある母親の写真の前に置く。

 

091 弥生    お誕生日、おめでとう。お母さん。

                     ……お母さん、会いたいよ。…ごめんね。(静かにすすり泣く)



数日後、平日の朝。
開店準備をする弥生と、出勤途中、あくびをする貴雅。
貴雅が『Bloomy Farm』の前を通りかかる。

 

092 貴雅    あれ、この間の…

093 弥生    (振り返り)…あぁ!おはようございます。

094 貴雅    おはようございます。

095 弥生    先日は、喜んでいただけましたか?

096 貴雅    はい。すごく綺麗だって、嬉しそうに。

097 弥生    よかったです…!

098 貴雅    お店、これからですか?

099 弥生    はい。花屋って、結構準備が大変で(笑)これからお仕事ですか?

100 貴雅    はい、すぐそこの、錦坂(にしきざか)高校なんです。

101 弥生    先生をしてらっしゃるんですね…!頑張ってください。

102 貴雅    ありがとうございます。お互い頑張りましょう。

103 弥生    ですね(笑)…またよかったらいらしてください。

104 貴雅    はい。…じゃあ、また。

105 弥生    また。

軽く会釈をして歩いていく貴雅。花の水やりに戻る弥生。
店の中から二人の様子を見ていた田口が声を掛ける。

 

106 田口    なぁに弥生ちゃん、誰よ今の人ー(笑)

107 弥生    なんでもないですよ(笑)

                     先日花束をオーダーしてくださった方なんです。

                     そこの錦坂高校で先生をされてるみたいで。

108 田口    いいじゃない、先生くらいお堅い職業の方が、将来も安泰よー(笑)

                     そこそこいい顔もしてるし。

109 弥生    何言ってるんですか(笑)

                     少なくても好意にしてる方はいるみたいですよ。

                     この間の花束も、その人に渡すものってことでしたから。

110 田口    もうーー残念ねー

111 弥生    何も残念じゃありませんって(笑)ほら、今日も働きますよー。

店の中に入る二人。

 

112 田口    弥生ちゃん、ここで働き始めてだいぶ経つけど、私今まで弥生ちゃんの浮いた話、全然聞いたことないわよ?

                     今いくつだっけ?

113 弥生    24ですけど…聞いたことないというより、実際にないんですもん(笑)

114 田口    もう!勿体無いわねー。

                     綺麗な顔してるんだし、引く手数多でしょうに。

115 弥生    家と職場の往復しかしてないと出会いも何もありませんしねー。

                     でも、私は私でフリーを謳歌してるのでそれでいいんですよ(笑)

116 田口    はぁー若いっていいわねぇ。…あ、そうだ、今日新しいお花が入ったのよ…これ。

117 弥生    わぁ、ネリネですか?

118 田口    あら、ずいぶん詳しくなったのね。

119 弥生    ある程度知識を持ってないと、花束を作るときとか、お客さんに説明するときに困っちゃうので。

                     …でも、そっか、もう秋冬のお花が並ぶ時期なんですね。

120 田口    そうね…私もこの仕事をして長いけど、いつもお店に入ってくる花たちの変化で季節を感じちゃうわ。

                     弥生ちゃん、ネリネの花言葉って知ってる?

121 弥生    花言葉まではわからないです。

122 田口    ネリネはね、華やかさとか麗しさ、輝きみたいな意味もあるんだけど、「忍耐」っていう意味もあるの。

123 弥生    忍耐、ですか?

124 田口    そう。あくまでも私のイメージだけど、弥生ちゃんって、いつも明るくて前向きに見えるのに、
          どこかいろんなことを頑張って抱えているんじゃないかって感じるときがあって。

                     もちろんいい意味でだけど、すごく大人びてるなぁって思うのよ。

                     だから、この花を見たときになんとなく思い浮かんじゃって。

125 弥生    そんな、大人びてるだなんて。

                     自分では年相応だと思ってますけど、店長にそう言ってもらえるのは、嬉しいというか、気恥ずかしいというか…(笑)

126 田口    ほんと、私の勝手な想像なんだけどね(笑)

127 弥生    いえ…ありがとうございます。

                     なんか、お花を見てイメージしてもらえるって嬉しいです。

                     …ネリネ、個人的に一ついただいてもいいですか?

128 田口    もちろんよ!あ、お代はいらないからね。

129 弥生    え、でも…

130 田口    いいのいいの!

                     いつも一生懸命働いてくれてるんだから、ささやかなお礼だと思って。帰るときに包んで渡すわね。

131 弥生    …それじゃあ、お言葉に甘えて。ありがとうございます。

132 田口    (微笑む)

その時、扉が開いてお客さんが入ってくる。

 

133 田口    あ…、いらっしゃいませ…!

134 弥生    (つぶやくように)華やかさ、輝き…忍耐、か。



その日の夜。弥生、仕事を終え、田口からもらったネリネとスーパーの買い物袋を持って家路につく。
自宅アパートの前に着いた時、茂みがかすかに揺れ、子猫の鳴き声がすることに気づく。
弥生、そっと近づくと、箱の中でタオルに包まれた小さな子猫が震えていた。


 

135 弥生    ん……あれ、どうしたの、こんなところで……おうちの人、いないの?…お腹空いたよね。

弥生、スーパーの袋を漁り、チーズを取り出す。

 

136 弥生    チーズなら食べられる?ちょっとちっちゃくしてあげるね。……これでどうかな…

子猫は少し匂いを嗅いだあと、小さなかけらを食べた。

 

137 弥生    あっ、食べた…!よかった………でもどうしようね、こんなところにいたら寒いよね…。

しばらく子猫を撫でていると、同じく仕事帰りの貴雅が通りかかる。

 

138 貴雅    …あれ、お花屋さんの…?

139 弥生    え?……あれ、今朝お会いした…

140 貴雅    びっくりしました。どうしたんですか、こんなところで。

141 弥生    あの…子猫が捨てられちゃってて、放ってもおけないので、どうしようかと…

142 貴雅    (箱の中を覗き込んで)わ、小さい……まいったなぁ…。

                     僕、ちょうど家がこのアパートなんですけど、うちペット禁止なんですよ。

143 弥生    …え、わ、私もこのアパートに住んでます。

144 貴雅    え…!?そんな偶然ってあるんですね。

145 弥生    本当に、びっくりしました……この子、どうしましょう、

                     私も日中は出っ放しですし、大家さんが引き取ってくださったらありがたいんですけど…

146 貴雅    僕も、それがいいと思います。まだそこまで遅い時間じゃないですし、大家さんに聞いてみましょうか?

147 弥生    そう、ですね。


子猫の入った箱を抱えて大家の家をノックする二人。
子猫の世話は大家が引き受けることになった。
二人は玄関口を通って階段を登っていく。

 

148 弥生    無事に引き取っていただけてホッとしました。

149 貴雅    本当ですね。あんなに快く受け入れてくださるとは思わなかったのでびっくりしましたけど(笑)

150 弥生    そうですね(笑)…あ、同じアパートだったっていうことも、本当に驚きましたけど。

151 貴雅    たしかに(笑)あ、その、津田…貴雅と申します。あらためて、よろしくお願いします。

152 弥生    あ、杉田弥生です。こちらこそ、よろしくお願いします。

153 貴雅    同じアパートだったのに、全然気が付きませんでした。

154 弥生    私もです。…お部屋は何階ですか?

155 貴雅    3階です、302号室。

156 弥生    あ、私202号室なので、ちょうど真上ですね(笑)

157 貴雅    あ…騒音とか、あまりご迷惑でないといいんですけど(笑)

158 弥生    そんなそんな(笑)…あ、じゃあ、私はこれで。

159 貴雅    はい、じゃあ杉田さん、おやすみなさい。

160 弥生    津田さんも、おやすみなさい。
 

161 貴雅M  人は運命の人と出会った時、雷に打たれたような衝撃を感じることがあるという。

                       しかし、実際の運命というのは、物音ひとつ立てず、静かに静かに歩み寄ってくるものなのかもしれない。

                       糸は音もなく絡み合い、僕たちふたりの距離も、気づかないうちに少しずつ近づいていくような。



数日後、朝。アパートの玄関口でばったり出くわす貴雅と弥生。

 

162 貴雅    あ、杉田さん。おはようございます。

163 弥生    あ…、おはようございます。この時間にお会いするの、珍しいですね。

164 貴雅    今日は結構早い時間から職員会議があって。

                     最近一気に寒くなりましたし、布団から出るのにも一苦労です。

165 弥生    わかります。

                     私もこの仕事をし始めてから半ば強制的に朝型生活にはなったんですけど、元々結構夜型で。

                     寒い時期はどうしてもしんどいです。

166 貴雅    ほんと、体調も崩しやすい時期ですし生活習慣だけは気をつけないとと思ってるんですけどね…。

                     ……あ、そういえば、この間大家さんにお会いしました。

167 弥生    あ…!例の猫ちゃん、その後どうですか?

168 貴雅    元気にしてるみたいですよ。

                     ご飯をあげてあたたかくしてあげたら、すぐに歩き回るようになったって。

                     やんちゃな男の子らしいです。

169 弥生    そうなんですね…!よかった。また機会があれば会えたらいいんですけど。

170 貴雅    僕もその時は会えなかったので、元気な姿見たいですね。あ、名前はルークっていうみたいですよ。

171 弥生    ルークくん(笑)…次の家族のところでは、幸せになってほしいですね。

172 貴雅    本当に、そうですね。

173 弥生    …家族でも、簡単に手放せちゃうものなのかなって。

                     でも、大家さんも素敵な方ですから、大丈夫ですよね。

174 貴雅    …えぇ、きっと。

弥生、空気がしんみりとしてしまい、慌てて笑顔をつくる。

 

175 弥生    …あ、あの。先生をされてるって、なんの科目を教えられてるんですか?

176 貴雅    あ、国語です。

                     古文漢文というよりも、近現代の文学を中心に。

                     授業で扱うのは日本の作品がほとんどですけど、僕個人は海外の文学も結構好きで。

177 弥生    現代文の先生なんですね…!私、高校の時は現代文が一番好きでした。

178 貴雅    そう言ってもらえると、教えてる身としてはなんだか嬉しくなっちゃいますね。

                     杉田さんは、普段結構本とか読まれるんですか?

179 弥生    高校を卒業して社会人になってからは仕事で忙しくて割と読む機会も減っちゃったんですけど、今でも読書は好きです。

180 貴雅    ちなみに、好きな作家さんとかは?

181 弥生    そうですね…あまりジャンルを問わず色々好きかもしれないです。

                     現代の作家さんだと、東野圭吾さんや湊かなえさんみたいなミステリーから恋愛ものまでいろいろ読みますし、

                     太宰治とか、江戸川乱歩とか一昔前の作品も、ハマって読んでいた時期はありました。

182 貴雅    太宰や乱歩が好きだっていう若い女性、なんだかすごく珍しい気がします…!

                     高校でそういう作品を扱うときは、たいてい喜ばれはしないので(笑)

183 弥生    言い回しとか、時代背景とか、色々違って少し読みにくいですもんね。

                     …でも、私がお花屋さんで働いてみたいって思ったのは、太宰の作品がきっかけだったんです。

184 貴雅    …もしかして、『女生徒』ですか?

185 弥生    さすがは先生(笑)そうなんです。『女生徒』の一節が、すごく心に残ってて。

                     …「ぽかんと花を眺めながら、人間も本当に良いところがある、と思った。花の美しさを見つけたのは人間だし、」

186 貴雅    「花を愛するのも人間だもの」。

                     …今では、なかなか生まれないような素敵な言葉だなって思います。

                     地位とか、名誉とか、お金とか、便利さとか。そういうものにとらわれずに、

                     もっと日常のささやかな幸せに目を向けられたらいいのになぁって。

187 弥生    本当に。

                     だから、日頃何も考えずひたすらお花を眺めていると、すごく心が洗われるというか。

                     たしかにお仕事ではあるんですけど、同時にいい気分転換にもなるんです。

188 貴雅    いいですよね、そういうお仕事。

                     …あ、幸せといえば、日本ではあまりメジャーではないかもしれないんですけど、

                     ジュール・ルナールっていうフランスの作家が「幸福とは、幸福を探すことである。」っていう言葉を残していて。

                     どういう環境で、何があるから幸せ、というわけじゃなく、

                     「幸せってなんだろう」って考えながら生きられることこそが一番の幸せなんだ、って。

                     その言葉を思い出すたびに、現実と謙虚に向き合える気がしてます。

                     …あ、ごめんなさい、僕、文学の話になるとなかなか止まらなくて。…職業病ですかね(笑)

189 弥生    いえいえ…!やっぱり先生は知識が幅広いんだなぁって、聞いていてすごく楽しいです。

                     …そう考えると、たとえ苦しい状況にあったとしても「幸せになりたい」とか「どうしたら幸せになれるんだろう」って

                     考えることも、きっともうすでに幸せの一つなのかもしれませんね。

190 貴雅    たしかに、そうなんでしょうね。

『Bloomy Farm』の前に着く二人。

 

191 弥生    あ…それじゃあ、私はここで。津田さんもお仕事頑張ってください。

192 貴雅    杉田さんも。久々にこういうお話ができて楽しかったです。

193 弥生    (微笑んで)私もです。じゃあ、また。

194 貴雅    はい、また。

互いに会釈をして、弥生は店の中に、貴雅は学校への歩いていく。

貴雅、学校の職員玄関で間宮と出くわす。

 

195 間宮    津田先生、おはようございます。

196 貴雅    あ、間宮先生、おはようございます。

197 間宮    …もしかして、今の人ですか?先生の婚約者って。

198 貴雅    え?今の人って?

199 間宮    一緒に歩いてきてたじゃないですか!花屋のところで分かれてた女の人ですよ!

200 貴雅    あ…!いやいや、彼女は全然そんなんじゃ。ただの知り合いです。

201 間宮    えー!綺麗な人だからきっとそうだと思ったんですけど…

202 貴雅    またそうやって変な噂流さないでくださいよ(笑)

203 間宮    変な噂だなんて人聞きが悪いなぁー(笑)

204 貴雅    ほら、早くしないと職員会議始まっちゃいますって。

205 間宮    げっ、ほんとだ…まったく、早朝から会議なんてついてないですよ。

                     …あ!そうだ津田先生、金曜の夜って空いてますか?みんなで飲みに行こうって話があるんで、先生もよかったら!

206 貴雅    金曜の夜か、多分空いてると思います。

207 間宮    お!やった。そうしたら、また場所とか決まり次第伝えますね。

208 貴雅    わかりました。


数日後、金曜日。
『Rouge』スタッフルーム。
弥生が退勤の準備をしていると、同僚のミキが休憩を取りに入ってくる。

 

209 弥生    お疲れ様です。

210 ミキ    お疲れさまですー。ヤヨイさん、今日はもう上がりですかぁ?

211 弥生    はい、今日はこれで。

212 ミキ    …いつも思ってるんですけど、ヤヨイさんってちゃんとウチの「本番なし」ってルールを真面目に守ってるのに

                     いっつも指名率トップじゃないですかぁ。

                     あんなのみんな裏じゃ暗黙の了解っつって破ってるのに、どうやったらそんなに指名取れるんですかー?

                     …あ、もしかしてアフターしてるとか?笑

213 弥生    …いや、本当にそんなんじゃないですよ。

                     …なんていうか、なるべくお客さんの気持ちを汲み取って、要望に応えて、みたいな。

214 ミキ    またまたぁ。この仕事って、そんな綺麗事ばっかじゃやってけないじゃないですか。

                     …ま、いいですけど。ミキの目標は、ヤヨイさんを抜いてウチのナンバーワンになることなんで。

215 弥生    (気まずそうに作り笑いを浮かべる)

216 ミキ    (タバコを咥えながら)でも、ミキは好きな人がいてお金が必要だからこの仕事やってるわけだけど、

                     ヤヨイさんってどうしてこの仕事してるんですか?ミキみたいにホストとか行ってるイメージもないし。

                     出勤だって週に2回だけですよね?

217 弥生    …まぁ、私も私で、お金に困ってる、って感じかな。

218 ミキ    ふぅん。まぁ、こういうお店で働くってことはきっとそれなりの事情があるんですよねぇ。ヤヨイさんって空気読むの上手いっていうか、人の顔色読むの上手い人なんだろうなぁってのは、なんとなく思いますけど。この業界に限らず、いろいろ得をするんですよねぇ、そういう人って。でも、そんな人に限って闇深そうですよね(笑)

219 弥生    …っ。

永井、スタッフルームに入ってくる。

 

220 永井    お、うちのツートップ。

                     あ、ミキちゃんこの休憩が終わったらまたご指名入ってるからよろしくね。

                     弥生ちゃんはまた明日。お疲れ様。

221 ミキ    はぁーい。

222 弥生    お疲れ様でした、お先に失礼します。

弥生、『Rouge』を後にし、ネオン街を歩いていく。


同じく金曜日。
新宿のとある居酒屋で錦坂高校の教師数名が飲み会をしている。
終電の時間はとっくに過ぎており、二次会も終盤に差し掛かった頃。

 

223 間宮    (だいぶ酔った様子で)だぁからぁ!俺もほんとに津田先生みたいになりたいんですって!

                     わかります!?頭もいい、要領もいい、生徒からも信頼されてて?

                     おまけに美人な婚約者!神様は不公平だよなぁ!

224 貴雅    間宮先生飲み過ぎですよ。

225 間宮    んなことないっすよぉ!!津田先生だってもっと飲めばいいのにぃ。

226 貴雅    僕はそんなにお酒は強くないから…

227 間宮    いいじゃないっすかぁ!

                     ようやく期末の準備も終わりそうでせっかくの華金なんだから、パーッといきましょうパーッと!

228 貴雅    本当に僕はいいですから。

                     (帰る雰囲気になっている他のメンバーに)…あ、間宮先生は僕がタクシー捕まえて返すので、大丈夫です。

                     お会計もそこにまとめておいていただければ払っておきます。

                     …お疲れ様でした!はい、また月曜に。

                     ……ほら、間宮先生立てますか?

229 間宮    んぅ…はぃ…

会計を済ませ店を出た貴雅は、間宮に肩をかしながら大通りでタクシーを捕まえようと待っている。
そこに空車のタクシーが通りかかり、貴雅は間宮を後部座席に乗せる。

 

230 貴雅    ほら間宮先生、ご自宅の住所言えますか?
             (ぶつぶつと住所を呟く間宮)

                     (運転手に対し)すみません、彼のいう住所までよろしくお願いします。……ん?

貴雅、向かいの通りを歩く女性に目をやる。
マスク姿の弥生が通りを歩いていく。

 

231 間宮    津田先生も乗って行っちゃえばいいじゃないですか〜割り勘すれば安く済みますよ〜

232 貴雅    え、あ、いやすみません!僕はちょっと…運転手さんあとお願いします!

閉まるタクシーのドア。
貴雅、女性の姿を追いかける。
しかし女性は視界の先でタクシーに乗り走り去ってしまう。

 

233 貴雅    気の所為、だよな…



週が明け、月曜日。
いつもより早く帰宅できた貴雅は、『Bloomy Farm』を訪れる。

 

234 弥生    いらっしゃいませ…あ、津田さん。

235 貴雅    こんにちは。今日はいつもより早く上がれたので。

236 弥生    お疲れ様です。…今日も、先日の方への贈り物ですか?

237 貴雅    あ、いや…今日は、少し気恥ずかしいんですけど、自分の部屋用に。

                     なんだか男一人だとどうも殺風景で。お花でも飾ってみようかな、と。

238 弥生    素敵じゃないですか…!

                     お部屋にお花を飾るだけで、毎日の気分も少し明るくなりますから。

                     どんなお花がいいですか?もし、ご希望があれば。

239 貴雅    そうだな…杉田さんのおすすめってありますか?

                     こう、見ていると優しい気持ちになれたり、元気をもらえたりするようなお花、といいますか。

240 弥生    そうですね…私の好みになってしまうかもしれないんですが、今の季節だとこれがおすすめかなって思います。

                     ノースポールっていうお花で、キュッと集めて生けるととっても可愛いんですよ。

241 貴雅    ノースポール、初めて聞きました。

                     マーガレットに似てますよね。

242 弥生    そうですね、色味も白と黄色なので、お部屋に馴染みやすいと思いますよ。

                     それと、ノースポールの花言葉の一つは「誠実さ」なんです。

                     なんだか津田さんらしいなと思いまして。お仕事に対してとか、言葉選びとか。

243 貴雅    え、誠実…僕がですか?嬉しいですけど、そんなふうに言っていただけると少し照れますね(笑)

                     …それじゃあ、そのノースポールをお願いします。

                     あっ…でもうちいい感じの花瓶もないので…

                     (花瓶の陳列棚から一つ手に取り)これも一緒にいただいていいですか?

244 弥生    かしこまりました。お包みしますので、少々お待ちくださいね。

弥生、レジカウンターに入り梱包を始める。

 

245 貴雅    ………あの、杉田さん。先週金曜日の夜遅く、新宿にいらっしゃいましたか?

弥生、作業していた手を止める。

 

246 弥生    え…?

247 貴雅    あ、いや、僕の勘違いならいいんですけど。

                     ただその日、僕もちょうど他の先生たちと飲み会をしていまして。

                     終電も無くなった遅い時間に、杉田さんに似ている人を見かけたものですから。

248 弥生    …先週の金曜は友人とご飯を食べて、終電で帰ったので、多分人違いですね。

249 貴雅    そう、ですよね。ごめんなさい、変なこと聞いちゃって。

250 弥生    いえ。…では、こちら、お品物先に失礼します。

                     お会計、1610円お願いします。

251 貴雅    あ、カードでお願いします。

252 弥生    はい、お預かりします。

会計を済ませて店を出る貴雅と、それを見送る弥生。

 

253 弥生    ありがとうございました、お気をつけて。

254 貴雅    はい、帰ったら早速飾りますね。

255 弥生    ぜひ。それじゃあ、また。

256 貴雅    はい。…あの、杉田さん。

257 弥生    はい?

258 貴雅    その、あんまり無理は、しないでくださいね。

259 弥生    え?

260 貴雅    いや、別に他意はないんです。ただ、なんとなく。…それじゃあ、また。

会釈をして背を向ける貴雅と、少し複雑な表情でその背中を見送る弥生。


貴雅が帰宅すると、玄関先には真弓が待っていた。

 

261 貴雅    真弓さん…!どうしたの?

262 真弓    この間の食事の時、またあなたの家にもお邪魔するねって言ったじゃない。

                     もしかして、まずかった?

263 貴雅    いや、全然そんなことないけど…あ、どうぞどうぞ、上がって。

貴雅の部屋に入る二人。

 

264 貴雅    荷物適当に置いて、座ってて。今コーヒー淹れるよ。

265 真弓    前に来た時も思ったけど、本以外は本当に何も置いてないわよね。

266 貴雅    男の一人暮らしだとどうしてもね。

貴雅、買ってきたノースポールと花瓶を袋から出し、生けている。

 

267 真弓    あら、お花?なんだか珍しいわね。

268 貴雅    あぁ、流石に殺風景すぎると思ってね。

                     真弓さんのいう通り、必要最小限の家具と本の山しかないっていうのも、ちょっと味気ないかなて。

269 真弓    ふぅん。それ、マーガレット?

270 貴雅    いや、似てるけど、ノースポールっていう花らしい。

271 真弓    そう。

貴雅、インスタントコーヒーを淹れる。

 

272 真弓    ねぇ、今日夕飯一緒に食べない?

                     駅前にこの間新しくできたイタリアン、美味しいって評判なのよ。

                     月曜なら予約しなくても入れるでしょうし。

273 貴雅    あぁ、わかった。それにしても、ずいぶん急だったね。言ってくれたら迎えに行ったのに。

274 真弓    私も仕事帰りだったからいいの。仕事は順調?

275 貴雅    あぁ。なんとか落ち着いて休みを迎えられそうだよ。

276 真弓    よかった。ねぇ貴雅さん、式のことだけど、式場は父のグループの系列になると思う、って。大丈夫そう?

277 貴雅    …あぁ。何から何まで、すまないな。

278 真弓    いいのよ。

                     うちの両親も、私がようやくちゃんと結婚するって雰囲気になってホッとしているみたいだし。

279 貴雅    (コーヒーの入ったマグカップを二つテーブルに置いて)はい。……ねぇ、真弓さん。

280 真弓    何?

281 貴雅    その、真弓さんは、本当にいいの?僕と、結婚、しても。

282 真弓    どうしたの、急に。

283 貴雅    いや、なんていうか…

                     …僕らは、生まれる前から両親が知り合いで、幼い頃から過ごしてきた時間もそれなりに長かったし、

                     許婚(いいなずけ)って言われても、なんとなく受け入れてきてしまったところはあるけど。

                     でも、僕はあの家を継がないってわがままを通してもらいながら教師をしているし、

                     真弓さんだってやりがいを感じながら仕事をしてる。

                     それに、結婚ってその、お互いの気持ちあってこそのものじゃないのかな。

                     もちろん僕は真弓さんのこと大切にしようと思ってるけど、真弓さんに同じものを強要しようとは思っていないし。

284 真弓    お互いの、気持ち、ねぇ。

                     私も、もちろん貴雅さんとは一緒にいて気が楽よ。

                     だから、この先一緒に生活していくってなっても、お互い今まで通り仕事を続けながら問題なく過ごせると思ってる。

                     でも、なんていうのかしらね。

                     私にとっては、結婚することも、子供を産むことも、全部両親を安心させるためっていうか。

                     …私、貴雅さんが思うほどロマンチックな人間でもないから、愛とか…そういうのあまりハッキリわからないのよね。

                     ただ、あなたも私も安定した生活ができるだけの収入もあるし、両親の理解だってあるわけでしょう?

                     それでお互いが居心地悪くない存在だとしたら、それ以外に必要なものって、あるのかしら?

285 貴雅    …そっか。愛って、僕もよくわからないけど。真弓さんが僕との結婚に息苦しさとか感じていないんだったら、それでいいんだ。

286 真弓    えぇ。…コーヒー、冷めちゃうわよ。

287 貴雅    ん、あぁ…。



数日後、土曜日。
アパートの玄関前。弥生と大家が話している。
大家さんの腕の中には少し大きくなったルークが大人しく丸まっている。
そこに貴雅がやってくる。

 

288 貴雅    あ、杉田さんに大家さん……あれ、もしかしてルークですか!?

289 弥生    津田さん!そうなんですよ、ルーク、大きくなりましたよね!

290 貴雅    えぇ!本当によかった。

291 弥生    大家さんにすっかり懐いて、今じゃこの調子です(笑)

292 貴雅    これからもっと寒くなりますし、大家さんもルークも、風邪引かないでくださいね(笑)

                     …杉田さんは今日これからお出かけですか?

293 弥生    えぇ、今日は仕事もお休みなので。と言っても、すぐそこのコンビニまでですけど。

294 貴雅    あ、それなら行き先同じです。よかったら、ご一緒しても?

295 弥生    はい。…じゃあねルーク。

296 貴雅    またね。大家さんも、また。

大家に会釈をして玄関口を出る二人。
コンビニまでの道を横並びに歩いている。

 

297 弥生    なんか、本当によかったです。ルークの元気そうな姿を見られて。

298 貴雅    ですね。あのまま保護してあげられなかったら、寒空の下どうなってたか。

299 弥生    ……あ、そういえば、この間津田さんが教えてくださったジュール・ルナール、なんとなく気になって、

                     たまたま図書館に行く機会があったので、ちょっと読んでみたんです。

                     私、フランス文学ってなんだか勝手に敷居の高いイメージがあったんですけど、すごく読みやすかったです。

300 貴雅    本当ですか!それはよかったです。

                     やっぱり海外文学って、当たり前ですけど日本との大きな価値観とか世の中の違いっていうのが感じられやすいんですよね。

                     特にフランス文学は、人々の心の描かれ方とか考え方っていうのがとても繊細で、新鮮でもあるから。

301 弥生    以前津田さんが教えてくださった「幸福とは、幸福を探すことである。」っていう言葉も作品の中で見つけて。

                     私もすごく好きな言葉になりました。

302 貴雅    そう言ってもらえると嬉しいです。

                     …そうだなぁ。じゃあ、もう一つ僕の好きな言葉があって。

                     杉田さん、シャルル・ペローってご存知ですか?

303 弥生    あ…!名前なら聞いたことあります。

304 貴雅    彼は、1600年代に活躍したフランスの童話作家で、初めての児童文学を書いた人とも言われているんです。

                     そんな彼の名言の中で、

                     「ダイヤモンドや金貨は、人の心を大きく動かす。けれどもやさしい言葉は、もっと力があり、もっと大きな価値がある。」

                     っていう言葉があって。

                     これは、僕が本格的に文学を好きになるきっかけでもあったんです。

305 弥生    やさしい言葉は金貨やダイヤモンドよりも力と価値がある、かぁ。

306 貴雅    どれだけ権力があったって、結局、人の心に優しく沁みるような言葉には勝てないんだなって思って。

                     そこから、もっとちゃんと言葉を知ろうって思うようになったんですよ。

307 弥生    なんだか、やっぱり津田さんらしいですね。

308 貴雅    そう、ですか?

309 弥生    もちろん、言葉をたくさん知ってる方なんだろうなっていう印象は最初からあったんですけど、

                     なんていうか、本当に言葉選びが丁寧だなぁって。

                     どれだけ言葉を知っていたって、それをちゃんと選んで、相手に優しく伝わるように工夫することって、

                     誰にでもできることじゃないですから。

310 貴雅    (苦笑しながら)…杉田さん、本当に褒め上手ですね。

311 弥生    私、お世辞は苦手なんです。思ったことをそのまま伝えただけですよ。

コンビニに着く二人。

 

312 弥生    はぁーあったかい…!

313 貴雅    最近また一気に寒くなりましたもんね。

                     (店頭の特設コーナーを見ながら)あぁ、クリスマス…もうそんな時期かぁ。

314 弥生    なんだか、二十歳を超えてからの時間の流れがこれでもかってくらい加速していて本当にびっくりしてます…

315 貴雅    杉田さん、それ、30超えるとさらになんで気をつけてくださいね(笑)

316 弥生    え!?津田さん、おいくつなんですか?

317 貴雅    僕今33です。

318 弥生    えっ、見えない…てっきり20代後半くらいかと…

319 貴雅    まぁ…顔立ち的に若く見られやすいかもしれないですね(笑)

                     杉田さんは、おいくつなんですか?…あ、女性に年齢を聞くのは失礼かな。

320 弥生    いえいえ、私、24です。

321 貴雅    若いなぁ(笑)

322 弥生    33だってまだ十分若いじゃないですか(笑)

323 貴雅    いやいやあっという間ですよ、本当に。

貴雅、チョコレート菓子をカゴに入れる。

 

324 弥生    あれ、津田さんもそのお菓子好きなんですか?

貴雅が弥生のカゴを見ると、同じお菓子が入っている。

 

325 貴雅    あ…、杉田さんもですか?

326 弥生    小さい時からずっと好きで。なーんかやめられないんですよね。

327 貴雅    わかります。僕も家で採点とかしながらつまんでて、気づけばなくなってるので。

笑い合う二人。

 

328 弥生    あ、それじゃあ、私先お会計済ませてきちゃいますね。

329 貴雅    はい。

コンビニから帰ってきた二人。玄関口から階段へ。

 

330 弥生    またいろんなお話を聞かせてもらって楽しかったです。

                     今度図書館に行ったら、シャルル・ペローも探してみますね。

331 貴雅    (微笑んで)はい、是非。

332 弥生    …それじゃあ、また。

333 貴雅    また。

階段の踊り場で分かれる二人。

 

334 弥生    (腕時計を見て)…あ、もうこんな時間…仕事の準備しないと。


 

『Rouge』の個室。
いつも弥生を指名してくる常連客の男が気味悪く広角を上げながら弥生を見つめている。

 

335 客      ねぇヤヨイちゃんさぁ、そろそろいいだろ?

336 弥生    え?

337 客        ヤヨイちゃんが入った頃からヤヨイちゃんのこと気に入ってさぁ、足繁く通って指名してあげてるじゃん?

                     だから、そろそろもう少しサービス割増してくれてもいいんじゃないかって話。

                     なんならお店に内緒でチップもあげるから。

338 弥生    …いやだなぁもう、ここではそういうのはダメって知ってますよね?

339 客       そういうのは建前だろう?

                     他の子だって暗黙の了解でみんなしてるじゃないか。

                     いつまでもそんな真面目ぶったこと言ってないでさぁ、目の前のお客を喜ばせるのがヤヨイちゃんの仕事なんだから。

男は弥生の腕を掴んでベッドに押し倒す。
必死に抵抗する弥生。

 

340 弥生    いやっ…!!やめてください…!!

341 客        俺の言うことが聞けないのか?

                     こっちは安くねぇ金払ってやってんのに、お前みたいな女にそれを拒む権利なんてあるわけねぇだろ…!

342 弥生    …っ!!

弥生は目を見開き、同時に過去の出来事がフラッシュバックする。
大きな影が弥生に迫り、幼い弥生の髪と手首を乱暴に掴む。(回想)

 

343 弥生の父(回想) お前、俺の言うことが聞けないのか?誰のおかげで飯食えてると思ってんだ、なぁ!?
 

344 弥生    っ!!!!

345 客      ぐっ…ってぇな、なにしやがんだおい!
 


弥生、力任せに男を振り払い、店を飛び出す。


外は強い雨が降っているが、弥生は構うことなく呼吸を荒げながら走り続ける。


どれくらい走ったのか、気づけば自宅アパートの前に立っていた。
玄関口に倒れ込む。
すると少しして、傘をさした貴雅が帰宅する。
片手には書店の袋を持っている。

 

346 貴雅    え…杉田、さん!?

                     ちょっと、どうしたんですかこんなに薄着で、ずぶ濡れだし…風邪ひいちゃいますって!

弥生、返事もできずただ押し殺すように泣いている。

 

347 貴雅    …あの、ひとまず部屋に入りましょう?

                     僕の部屋、上がってもらって大丈夫なので。…立てますか?

貴雅、優しく弥生を立たせる。
二人は階段を登り、貴雅の部屋に入る。

 

348 貴雅    ちょっと待ってくださいね。

                     …えっと、ひとまず、タオル使ってください。風邪ひいちゃうと困りますから。

                     シャワーも浴びてもらって大丈夫なので。

                     …あ、着替えは、僕のものになっちゃいますけど、それでも大丈夫なら。

349 弥生    (弱々しく)…ごめんなさい。

350 貴雅    …お話なら後で聞きますから。

                     今はとりあえず、体を温めてください。

                     お風呂はそこ、右側のドアを入ってもらえればあるので。

351 弥生    はい。本当に、すみません。

弥生は浴室に促され、そのままシャワーを浴びる。
貴雅、その間に自身の部屋着とタオルを置き、ホットココアを用意し始める。
しばらくして、貴雅の部屋着を着た弥生がリビングにやってくる。

 

352 弥生    …あの、津田さん、シャワーも部屋着も、本当にありがとうございました。

353 貴雅    あ、あったまりましたか?

                     ちょうど今ホットココアもできたところなんです。甘いもの飲まれますか?

354 弥生    はい。

貴雅、テーブルにホットココアの入ったマグカップを置く。

 

355 貴雅    どうぞ。

356 弥生    何から何まで、本当にすみません。

                     …いただきます。

弥生、両手でマグカップを持ちゆっくりココアを飲む。

 

357 弥生    …美味しい。

358 貴雅    よかった。

                     ……あの、杉田さん。無理にとは言わないんですけど、何か、あったんですか?

                     真冬なのにあんな薄着で、荷物だって何も持っていなくて、おまけにずぶ濡れだし…。

                     本屋さんから帰ったら杉田さんが玄関口で蹲(うずくま)ってるんですもん、びっくりしました。

弥生、しばらく黙り込んだ後、静かに口を開く。

 

359 弥生    思い出して、怖くなったんです。

360 貴雅    …思い出した?

361 弥生    小さい頃の記憶が、フラッシュバックして。どうしようも無くなって。

362 貴雅    …はい。

363 弥生    …津田さん、今から私がお話しすること、驚かないで、聞いてくれますか?

364 貴雅    もう、十分に驚いてしまってるんですけど…どんなことでも、聞きます。

365 弥生    ……私、小さい頃、父から暴力を振われていたんです。

366 貴雅    (ハッと息を飲む)

367 弥生    母はもともと体が弱くて。

                     それでも、事業に失敗して酒浸りになった父の代わりになんとか家族を支えようと

                     ほぼ毎日スーパーのレジ打ちをしながら働いて、貯金を切り崩して生活していたんです。

368 貴雅    …。

369 弥生    父はろくに再就職をしようともせず、事業が栄えていた頃の話ばかりしていました。

                     そのうち、お酒を飲むと「誰のおかげで飯を食えてると思ってるんだ」って怒鳴り散らしながら、

                     私や母に暴力を振るうようになって。

                     私はいつも父の顔色を伺って、少しでも機嫌を取ろうと必死でした。

                     だんだん歳をとって、私が中学2、3年生の頃にようやく暴力は収まりましたけど、

                     母はそれまでの無理が祟って、私が高校に上がったタイミングで亡くなったんです。

370 貴雅    (言葉を失っている)

371 弥生    その頃から、父は家を開けることが多くなりました。

                     私は家でも極力父を避けていたので知らなかったんですけど、

                     私が高校卒業を目前に控えた時、父が800万の借金を抱えていることがわかったんです。

                     それも、まだ未成年だった私を連帯保証人にして。

                     父はそれを私に打ち明けた数日後に、テーブルの上に5000円を置いて、どこかに行っちゃいました。

                     …もう本当に訳が分からなくて、母がこっそり私のために残しておいてくれた貯金と、

                     何個か仕事を掛け持ちして食い繋ぎながら、少しずつ借金を返してきたんです。

372 貴雅    …頼れる、親戚とかは?

373 弥生    両方の祖父母も、その時にはもういなくて。きちんと関わりのある親戚もなかったので。

374 貴雅    そうだったんですか…。

375 弥生    ……それから、津田さんにひとつ、謝らないといけないことがあります。

376 貴雅    謝らないと、いけないこと?

377 弥生    この間の金曜日の夜、新宿で私に似た人を見たって仰ってましたよね。

378 貴雅    えぇ。

379 弥生    あの時、人違いじゃないですかって言いましたけど、私、たしかにその日のその時間、新宿にいたんです。

380 貴雅    …え?

381 弥生    これまでの仕事はやっぱりなかなか稼げなくて。

                     今はお花屋さんで働く傍ら、そういう、夜の仕事をしています。

382 貴雅    ……っ。

383 弥生    今日も、本当は仕事だったんです。

                     ただ、ちょっと色々あって久々に嫌なこと思い出して、お店飛び出してきちゃったんですよ。

                     …あ、こっちの仕事のことは、お花屋さんの方の店長も知らないことなので、

                     津田さんもこれは聞かなかったことにしてください。

384 貴雅    そんな、聞かなかったことにだなんて…

385 弥生    もともと、お話しするつもりもなかったことですから。

                     でも、ずっと誰かに聞いてほしかったんだと思います。

                     いろんなことが重なっちゃって、全然関係のない津田さんにこんな話…いい気分じゃないですよね。

                     …すみません。(少し声が震えている)

386 貴雅    ……辛かった、ですよね。…僕の言葉じゃ、気休めにもならないと思うんですけど。僕は、嬉しかったですよ。

387 弥生    え…?

388 貴雅    僕、前杉田さんに「無理しないでくださいね」って言ったじゃないですか。

                     もしこれで杉田さんが「なんでもないです」って貫き通したら、少し怒ったかもしれないですけど、

                     今、こうして話してくれた。

                     それってほんのちょっとでも吐き出してくれたってことなのかなって。

                     だから、嬉しかったです。話してくれて、ありがとう。

389 弥生    ……。

390 貴雅    僕には、杉田さんが経験してきた辛さはわからないかもしれません。

                     でも、決して、なんの関わりもない赤の他人というわけでもないから。

                     できることは本当に限られると思いますけど、僕でよかったら、なにかしら、お力になれたらな、って。

391 弥生    ………あの時言っていた言葉、本当ですね。

392 貴雅    え?

393 弥生    やさしい言葉は、どんな権力よりも強くて価値がある、って。

                     今までお金を稼ぐためにがむしゃらに働いてきましたけど、

                     もし今、目の前にお金の束を差し出されたとしても、きっと、

                     津田さんがかけてくださった言葉の方が、何倍も嬉しいです。

394 貴雅    …本当に、よかったです。そう言っていただけて。

                     …でも、その、僕はそういったお仕事に偏見があるわけでもないんですが、

                     杉田さんには、自分のことをちゃんと、大切にしてほしいなって思います。

                     きっと、もうこれまで十分傷ついて、頑張ってきたはずですから。

395 弥生    ……(しばらく無言で考えて頷く)。

                     …あ、ごめんなさい、シャワーお借りしちゃった上に、本当に、色々と。

                     そろそろ、お暇しないと。

396 貴雅    お暇…して、どこに?

397 弥生    え、自分の部屋、に…

弥生、周囲を見回し、家の鍵を含めた全ての荷物を『Rouge』に置いてきてしまったことに気づく。

 

398 弥生    あ…

399 貴雅    いいですよ、杉田さんさえお嫌じゃなかったら、今日はうちで休んでいってください。

                     僕はソファーで寝るので。

                     あ、もし同じ部屋が気まずければ、僕近くのカプセルホテルとかにでも行きますし。

400 弥生    え、あ、いや、それはダメです、申し訳ないです…!

401 貴雅    きっとすごくお疲れでしょうから、早く休んだ方がいいです。

弥生、少し考え込み、再度口を開く。

 

402 弥生    …あの、津田さん、明日ってお仕事お休みですか?

403 貴雅    え、まぁ、家で少し片付ける書類があるくらいですけど…どうしてですか?

404 弥生    なんというか、このまま休ませていただくのも忍びないといいますか…

                     それに、なんとなく、すぐには寝付けそうもないので。

                     …もしよかったら、津田さんのお話を聞かせてください。

405 貴雅    え、僕の話?

406 弥生    その、私のいろんなお話も一方的に聞いてもらっちゃいましたし。

                     それに、あまり津田さんご自身のお話って聞いたことなかったなぁと思って。

                     あ、もちろん全然無理にとは言わないんですけど。

                     むしろ、失礼だったらごめんなさい。

407 貴雅    あ、いえそんな。

                     …でも、普段あまり人に自分のこと話す機会ってないので、何から話そうかって感じなんですけど(笑)

408 弥生    それじゃあ…どうして、現代文の先生になろうと思ったんですか?

409 貴雅    うーん…でもよく考えてみたら、その質問がいろんなことを内包している気がします。

                     直接的な答えとは少しずれちゃうんですけど、僕の父方の家系は、祖父の代から結構大きな会社を経営していて。

                     今は父が社長で、次は僕の兄が後を継ぐことになっているんです。

410 弥生    お、大きな会社の社長さん…

411 貴雅    えぇ。

                     と言っても、次男である僕は後継ぎについてうるさく言われることもなくて、自由にやらせてもらえてきたんですけど。

                     それに、社交的な兄と違って、僕は小さい時から内気で、本ばかり読んでいるような子供でした。

                     ある程度大きくなって、いわゆる「大人の事情」っていうものもだんだん察することができるようになると、

                     余計に家の中が息苦しく思えて仕方なくなったんです。

                     そこからは自分の殻に閉じこもるようにまた本を読み耽(ふけ)って。

                     地位も名誉もお金も権力も、なんだか心地悪くて、小さな一冊にこめられたやさしい言葉が、

                     僕にとっての救いのような存在でした。

                     その感覚を伝えられたらって思ったのが、この道に進もうと思ったきっかけかもしれないです。

412 弥生    ……。

413 貴雅    幸い、僕と正反対の兄は大学で経営を学んで、

                     父とも折り合いがよかったのでなんの問題もなく後継者に決まりました。

                     僕がこうして家を出て自由に教師をしていられるのは、そういう意味では兄のおかげでもあります。

414 弥生    そうなんですね…全然悪い意味じゃないんですけど、これまでのイメージと違って、びっくりしました。

415 貴雅    大学のとき、友人に誘われていわゆる合コンみたいなものに参加したんです。

                     その場にいた人みんな、僕の実家のことを知った瞬間急に目の色が変わって。

                     僕自身のことはまるで目に入っていないんじゃないかって思えて少し怖くなってから、

                     あまりこのことは人に言わないようにしているんです。

416 弥生    そうだったんですか…、

                     ということは、今お付き合いされている方ってちゃんと津田さん自身をみてくださっている方なんですね。

417 貴雅    ……彼女は、幼馴染というか、まぁ、両親の決めた人ではあるんです。

418 弥生    え?

419 貴雅    お互い子供の頃から気心の知れた仲でしたし、家を出たといっても縁を切ったとかではないので。

                     結婚とかそういうことは、また別問題なんだと思います。

420 弥生    結婚が、個人同士というよりも家同士の繋がり重視になるってこと、やっぱりあるんですね…。

421 貴雅    もちろん、彼女自身を大切にすることは大前提だとは思っています。

                     でも、どういう選択や振る舞いが全体にとっての最善なんだろうっていうのは、

                     僕自身、ずっと考えてきたことかもしれないです。

422 弥生    ……。

423 貴雅    …(少しトーンを上げて)なんか、ごめんなさい。

                     せっかく興味を持って聞いてくださったのに、僕の方も全然面白い話ができなくて。

424 弥生    いえそんなこと…!

                     むしろ私からお話を振ったのに、ちゃんと返せなくてごめんなさい。

425 貴雅    なんだかこう、もっと楽しい話をしましょう。

                     好きな食べ物とか、好きな花とか、好きな本とか。

                     きっとそっちの方が盛り上がりますから。

426 弥生    そうですね。…あ、じゃあ、津田さんがどうしても忘れられない一冊ってありますか?

427 貴雅    いきなり難問が来たなぁー(笑)
 

428 貴雅M  いつも明るく笑っていた君が、わずかに声を震わせながら、初めて脆さをこぼした夜。

                       今思えば、僕はこの時、心の中の見つけられないほど深い部分に、言葉にできない、

                       何か複雑な感情を抱えていたように思う。
                       そうして僕たちは、気づけば外が明るくなるまでたくさんのことを話した。

                       子供の頃好きだったお菓子やテレビの話、

                       歩いて数分の老舗喫茶店のおじいちゃんオーナーが淹れてくれるコーヒーがとてもおいしい話、

                       近くにある公園のベンチに夕方たくさんの猫が集合する話。

                       3杯のホットココアを飲んで君と語った一つひとつは、これまで読んできたどんな物語よりも新鮮で、

                       僕の心を明るくしてくれたんだ。
 


翌日。アパート近くの道。
荷物を取りに行く弥生と、買い出しに行く貴雅が並んで交差点の信号に立っている。
弥生は貴雅が貸したコートを着ている。

 

429 貴雅    じゃあ、ぼくはこっちなので。

430 弥生    はい。本当に、色々ありがとうございました。

                     このコートも…またクリーニングに出してお返しします。

431 貴雅    いいんですよ、お気遣いなさらないでください。

432 弥生    …あの、津田さん。

433 貴雅    はい?

434 弥生    …今の仕事、やめるって、お話ししてこようと思います。

                     ちょうど貯金も貯まった頃ですし……もう少し、自分を大事にしてみようと思って。

435 貴雅    …(少し嬉しそうに)はい。

436 弥生    津田さんの言葉が、背中を押してくださったんです。

                     ありがとうございます。

437 貴雅    いえ、僕はそんな、何も。

438 弥生    (微笑む)…お花屋さんの方にも、またいらしてください。

439 貴雅    はい。あれから、やっぱり部屋に花があるのっていいなって思って。

                     また素敵な花の話、聞かせてください。

440 弥生    ぜひ。…それじゃあ、失礼します。

441 貴雅    お気をつけて。

その様子を車の中から見つめていた真弓。



数日後。『Bloomy Farm』店内。
新たな花を店先に並べる弥生と、レジで売上金の計算をしている田口。

 

442 田口    ねぇ弥生ちゃん、最近なんかいいことあった?

443 弥生    え?

444 田口    なーんとなく前と雰囲気が違う気がするのよねぇ。

                     お店の外を見ることも増えてるし。

                     …もしかして、好きな人でもできたの?

445 弥生    やだ店長そんなんじゃないですよ(笑)

446 田口    いつも言ってるじゃない。

                     弥生ちゃんまだ若いんだから、もっと誰かを心の底から好きになってみたりとか、冒険してみたりとか、

                     色々飛び込んでみなさいよ。

447 弥生    そういうのって自分一人じゃどうにもならないので難しいんですよ(笑)

                     あ、じゃあ私そろそろお昼休憩入ります。

                     コンビニ行ってきますけど、店長何か欲しいものありますか?

448 田口    いいのよもうそんな気を使わなくて〜ホットのミルクティーで!

449 弥生    (笑って)わかりました。

弥生、裏口から店を出る。
真弓、出てきた弥生に声をかける。

 

450 真弓    杉田、弥生さん?

451 弥生    え?

弥生、真弓の方を振り返る。

 

452 真弓    突然ごめんなさいね。今、ちょっとお時間いいかしら。


近くの喫茶店。向かい合って座る真弓と弥生。
お互いにしばらく無言。
弥生、ホットコーヒーに目を落としている。

 

453 弥生    …あの、すみません、あなたは…

454 真弓    …申し遅れました。

                     私、日比野真弓といいます。津田貴雅の婚約者です。

はっと息をのむ弥生。

 

455 真弓    単刀直入にお伺いしますが、あなたは、貴雅さんとはどのようなご関係ですか?

456 弥生    え、どう、って…たまたま同じアパートに住んでいまして、顔を合わせれば少しお話しする程度、ですけど…

457 真弓    先日、あなたと貴雅さんが二人で歩いている姿をたまたま目にしまして。

                     あなた、彼のコートを着ていましたよね?

458 弥生    あ、あれは!その、本当に意図しなかった事情があって。

459 真弓    それだけじゃなく、借金を返済中である上に夜のお仕事もしていらっしゃるとか。

460 弥生    どうして、それを…

461 真弓    …あなた、貴雅さんがどういう人かご存知ですか?

462 弥生    え?

463 真弓    『フェリースホテル』は、ご存知ですよね。

464 弥生    は、はい。東京駅近くの…。

465 真弓    彼は、あのホテルを経営する社長の次男にあたります。

                     本人は、自分は後継ぎでもないからと隠したがっていますけど、

                     そんな彼がもし結婚直前に不祥事を起こしたとなれば、いろんな人に迷惑がかかるというのは、ご理解いただけますよね?

466 弥生    婚約者の方を不安な気持ちにさせてしまったのなら本当にすみません。

                     でもそんな、不祥事だなんて…

467 真弓    もしあなたたち二人に本当に何もなかったとしても、当人たちの主張ほど説得力に欠けるものはありません。

                     勝手に調べさせていただいたことに関して、ご気分を害してしまったのなら謝ります。

                     でも、こういったことは調べればすぐに出てきてしまうものなんですよ。

                     杉田さんも、身に覚えのないことでこれ以上変に詮索されてしまうのは望んでいないでしょうから。

真弓、鞄から厚みのある封筒を取り出す。

 

468 弥生    これ……

469 真弓    もう、彼とはなるべく関わらないでいただきたいんです。

                     今すぐに引っ越してくださいとまでは言いませんけど、あなたの借金も、これで少しは軽くなるはずです。

                     この意味、わかっていただけますよね?

470 弥生    こんなもの受け取れません。私はお金目当てなんかじゃありませんし、津田さんとは本当に何もないんです。

471 真弓    こちらとしても、確約が欲しいので。

                     それに、実際何もないなら、あなたにはむしろ好条件ではないですか?

                     ……申し訳ありませんが、私は先約があるのでそろそろ失礼します。

                     いきなりお引き留めしてしまったので、お代は結構です。

真弓、席を立ち会計を済ませ店を出て行ってしまう。
弥生、複雑な表情で封筒を見つめる。



数日後、仕事帰りに『Bloomy Farm』を訪れる貴雅。
店内に弥生の姿はなく、田口が声を掛ける。

 

472 田口    いらっしゃいませ。

473 貴雅    こんにちは。

                     …あの、杉田さんって、今日は…?

474 田口    弥生ちゃんなら、今日は午前で上がりましたよ?

                     ここ数日はずっとお昼過ぎまでですけど。

475 貴雅    そう、ですか。

476 田口    今日は何かお探しですか?

477 貴雅    あ、ちょっと、部屋に飾る用のお花を探してて。

478 田口    それでしたら…


買った花を持って帰宅する貴雅。

 

479 貴雅    最近お忙しいのかな…

玄関口で、今から外出するらしい弥生とすれ違う。

 

480 貴雅    あ、杉田さんこんにちは。

                     これ…(買った花を見せようとする)

481 弥生    こんにちは。(伏せめがちに挨拶をし、足早に去る)
 

482 貴雅    (その後ろ姿を心配そうに見つめながら)何か、あったのかな…。



数日後。『Bloomy Farm』店内。
少し心配そうに弥生を見つめる田口。

 

483 田口    ねぇ弥生ちゃん、そういえば、この間から午前のシフト多いわよね。

484 弥生    はい。

485 田口    いやね、もともと特別忙しい店ってわけでもないから困ってる、とかじゃないんだけど、

                     弥生ちゃんがこの店に入ってから、なんだか少し珍しいなと思って。

486 弥生    あ……実は、ちょっと新しく、趣味とか見つけてみようかなと思って。

                     今まで仕事を詰め込んで、あんまりそういうことに時間を使ってこなかったので。

487 田口    そう…素敵なことじゃない、どんどん挑戦してみなさい。

488 弥生    ありがとうございます。

489 田口    …そういえばこの間夕方ごろ、例の、錦坂高校の先生、弥生ちゃんいませんかってお店に来たわよ。

490 弥生    (一瞬気まずそうな表情を見せるがすぐに戻して)…そうだったんですか。

491 田口    …弥生ちゃん、あの先生と何かあったの?

492 弥生    え?

493 田口    だってここ最近の弥生ちゃん、なんだか全然楽しそうに見えないんだもの。

                     少し前まですごく生き生きしてたのに。

                     …シフトを午前だけにしたのも、もしかして、あの先生を避けてるから?

494 弥生    …そんなんじゃないですよ。たまたまじゃないですか。

495 田口    そう…。

                     ……ねぇ弥生ちゃん。ちょっと話変わるんだけど。

                     弥生ちゃんは、もし、自分の人生に一輪の花が咲くなら、どんな花だと思う?

496 弥生    え、自分の人生に一輪の花が咲くなら…?なんでしょう…

497 田口    人はね、みんなそれぞれ心の中に一人ひとり違う種を持って生まれてくるの。

                     真っ赤なバラが咲く人もいれば、大きなひまわりが咲く人もいる。

                     でもね、普通の花が、太陽の光や水を必要とするみたいに、人の心の中に咲く花にも、必要なものがあるの。

498 弥生    なんですか?

499 田口    …自分が、本当に幸福だと思える人との出逢い。その人と過ごす時間。

                     これがないと、心の花は綺麗に咲けないのよ。

500 弥生    本当に、幸福だと思える人との出逢い。

501 田口    うん。もちろんこれは、恋人や夫婦に限った話じゃないわ。

                     人によっては、それが親だったり、子供だったり、恩師の先生だったりすることもある。

                     そういう人といるときってね、自分でも好きな自分でいられたりするの。

                     何かに挑戦してみようって勇気をくれたり、その人がいないとダメだっていう依存じゃなくて、

                     その人がいるから自由になれる、自分らしくいられる。

                     弥生ちゃんがどういう時に幸せを感じて、誰といることでもっと弥生ちゃんらしく自由になれるのか。

                     その答えを一緒に見つけてくれるような人に出逢えたなら、きっと、弥生ちゃんの中にも綺麗な花が咲くと思う。

502 弥生    ……咲かせてみたいなって、思いました。そういう人に出逢って。

503 田口    大丈夫よ。弥生ちゃんなら、きっと咲かせられるから。

                     …嬉しい出来事は太陽に、ときに起こる悲しいことや辛いことさえも、

                     雨になって、ちゃんとその花を支えてくれるような。そんな人に、きっとね。



弥生に避けられていることを感じながら数日が過ぎた。
貴雅の家にやってくる真弓。

 

504 貴雅    ごめんね、ちょっと資料整理の途中で散らかってるんだけど。

505 真弓    いいわよ別に。ねぇ貴雅さん、ちょっと話があるんだけど。

506 貴雅    ん、何?

テーブルに向かい合って座る貴雅と真弓。

 

507 真弓    この間研究室でちょっとした発表があってね。

                     今やってる研究内容に精通してるチームが千葉の方にいるらしいの。

                     ここからわざわざ通うには少し大変な距離だし、どのみち結婚したら引っ越そうって話もあったじゃない?

                     だから、そろそろ現実的に話し合わないとと思って。

508 貴雅    千葉となると僕も学校までの通勤が厳しくなりそうだな…移動は大体いつ頃になりそう?

509 真弓    今のところ予定はこの3月くらいを考えてるわ。

510 貴雅    え、ちょっと待って、そうしたらあともう3ヶ月くらいしかないってこと?

511 真弓    そうね。できればそれまでに正式に籍を入れて、式も済ませちゃいたいわ。

                     貴雅さんもいきなり学校を変えるなんて大変でしょうし、

                     お互い色々準備が整うまでは私だけ千葉の方で暮らすでも構わないから。

                     追々、ちょうどいい距離の物件が見つかれば。

512 貴雅    随分と急だな…。

                     ……あのさ、真弓さん。入籍も式も、そんなに急いでしまっていいのかな。

513 真弓    どうして?

                     これで3月になったらもっと予定も組みづらくなっちゃうでしょう?

                     もう式場もいろんな段取りも目処はついてるんだから、何も問題ないじゃない。

514 貴雅    そうじゃなくて。

                     こう、こんなに事務的に進めていくことなのかな、って。

515 真弓    準備なんて大概どんなことも事務的に進めていくものでしょう?

                     あれこれ考えてたらタイミングなんて簡単に逃げていくわ。

                     それに、結婚したらすぐ子供のことだって考えないといけないんだし。

516 貴雅    …前にも、聞いたけどさ。

                     真弓さんは、本当にそれでいいんだよね?

517 真弓    むしろ何がいけないの?

                     お互いの両親だってそれを望んでるんだし、心配することないじゃない。

                     …それとも、まだ気にしてるの?…愛がどうとかって話。

518 貴雅    ……。

519 真弓    あのね、貴雅さん。

                     確かに私たちの結婚は、紆余曲折あった恋愛結婚じゃないわ。

                     でも、私たちはお互い好きなことを仕事にできて、生活への心配も要らなくて、

                     この先も何不自由なく暮らしていけるのよ?

                     漠然とした愛なんかよりも、こっちの方がよっぽど現実的な幸福だと思わない?。

520 貴雅    …現実的な、幸福。

521 真弓    そう。あなたにとっても、私にとっても、お互いの家族にとっても。

                     これが最善の選択なの。

522 貴雅    ごめん、僕はまだどうしても、真弓さんくらいきっぱり割り切れなくて。

523 真弓    ……あの子のことが気になる?

524 貴雅    え?

525 真弓    同じアパートに住んでて、お花屋さんで働いてる若い女の子。

526 貴雅    …どうして、真弓さんが彼女のこと、

527 真弓    もし何もなかったとしても、

                     変に疑われでもしたらお義父さんやお義兄さんに迷惑がかかることは貴雅さんにもわかるでしょう?

528 貴雅    ……。

529 真弓    いくらあなたが後継ぎじゃないってって言ったって、私との婚約はもう周知の事実。

                     そんな中で借金を抱えた夜の仕事をしてる若い子と、みたいな噂が広まるのは、皆にとって不本意だわ。

530 貴雅    ……。

531 真弓    あなたは家を出て自立した気でいるんでしょうけど、あの家の一員であることには変わりないのよ。

                     それに、あなたの家が今、以前のように軌道に乗っていないこと、きっと耳に入ってるでしょう。

                     この結婚はお互いの家を立て直すのにも大事な契機なのよ。

                     人生はあなたの好きな小説じゃないの。

                     …彼女にも、会って話をしたわ。

                     勝手なことをしたとは思ってるけど、これも彼女のためよ。

532 貴雅    話したって、何を…

533 真弓    あなたがどういう立場にあるのか。

                     この状況が彼女にとってマイナスなものであることも伝えたわ。

                     あなたとはもう関わらないで欲しいって。

                     もちろん、こちらも然るべき額は渡したし。

534 貴雅    どうしてそんなこと…!

535 真弓    あなたらしくないわね、たかが「友人」一人のためだけにそんなにも感情的になるなんて。

536 貴雅    …らしくないのは真弓さんもでしょう。

                     彼女は僕の家のことも詳しくは知らなかったし、何も悪くない。

                     なのにそんな、手切金みたいな真似…

537 真弓    知らないことで傷つくことだってたくさんあるわ。

                     感情なんていつか終わりが来る一過性のものよ。

                     もっと落ち着いて、いつもの貴雅さんとして考えたら明らかじゃないかしら。

538 貴雅    いつもの僕って、君が見てる僕って、一体なんなんだ?

                     君にとって、僕は僕だからじゃなくて、あの家の息子だから価値があるのか?

539 真弓    それはお互い様なんじゃない?

                     私たちは、お互いの家っていう背景があるからこうして結婚という流れになっている節は大きいでしょうし。

                     もちろんそれだけじゃないけれどね。

                     私がやりたいことも応援してくれるし、教師としてもとても頑張っているし。

                     そういう意味でも、未来は考えられると思ってるわ。

540 貴雅    もっとお互いの、人としての、好きなものとか、考え方とかさ。

                     夫婦として過ごしていくって、そういうところもちゃんと理解しあった上で…

遮るように真弓の電話が鳴る。

 

541 真弓    ちょっとごめんなさい。

                     …はい、日比野です。…え、本当ですか!わかりました、今から向かいます、はい。

真弓、電話を切ると急いで荷物をまとめ始める。

 

542 真弓    ごめんなさい、ちょっと研究室の急用で呼び出されちゃって。

                     今日はもう帰るわね。

                     また家族で話す日程も決めたいから、空いてる日、擦り合わせましょう。

足早に部屋を出ていく真弓。
部屋にひとり残された貴雅。

 

543 貴雅    はぁ…。


 

544 貴雅M  それから、結局君とはきちんと顔を合わせることもないまま、年が明け半月ほどが過ぎた。

                       真弓さんから君と話したことを聞かされ、僕は君にどうしても謝りたかったけれど、

                       避けられていることは明らかだった。
                       …この期間、僕には一つ大きな変化があった。

                       真弓さんと両方の家族に、婚約の破棄を願い出たのだ。

                       もちろん最初は猛反対されたが、僕が家と完全に縁を切ることを条件に、なんとか許しを得ることができた。

                       最後の話し合いの時、父と兄からは「お前は次男の器以下だ」と言われた。

                       母は、静かに泣いていた。

                       真弓さんは、表情ひとつ変えなかった。
                       これでよかったのだと心の中で繰り返しながら、僕はいつもと変わらない日々を過ごしている。

                       「本当の自分」を、探しながら。



咳き込みながら薬局の袋を抱えてアパートの玄関口に着くマスク姿の貴雅。
高熱で意識が少し朦朧としている、ふらついた足取り。

 

545 貴雅    ゴホッ、ゴホッ……まいったな…

するとそこに、仕事から帰宅した弥生もやってくる。

 

546 貴雅    …こんにちは。

547 弥生    こんにちは。

貴雅、目を合わせないまま軽く会釈をしその場を去ろうとする弥生を呼び止める。

 

548 貴雅    あの、杉田さん!

549 弥生    ……。(振り向かないままその場に立ち止まっている。)

550 貴雅    その、ずっと、ちゃんとお話がしたくて。

                     …僕、あなたに謝らないといけないことが……

そう言いかけてその場に倒れ込む貴雅。
音に驚いた弥生が振り返り、貴雅さんに駆け寄る。

 

551 弥生    津田さん…!津田さん!しっかりしてください!



貴雅の部屋。
弥生が台所でお粥を作っている。
額に濡れタオルを乗せられた貴雅、ゆっくりと目を覚ます。

 

552 貴雅    ん………

553 弥生    あちっ…(できたお粥をベッドサイドに運んでくる)

                     …あ、津田さん…よかった気がついて…

554 貴雅    杉田、さん…?

555 弥生    下の玄関で急に倒れてしまって、びっくりしました。

                     すごい熱だったんですよ。

556 貴雅    あ……

557 弥生    たまたま大家さんが気づいてくださって、津田さん鍵を持ってらしたから、なんとかお部屋まで運んで。

558 貴雅    …すみません。

559 弥生    いえ。…私の方こそ勝手に上がって台所を使ってしまって…すみません。

560 貴雅    …お粥、ですか?

561 弥生    はい。お口に合うといいんですけど。

562 貴雅    (起き上がりながら)いただきます。……(軽く息で冷ましながら一口食べる)

                     …美味しいです。

                     なんだか懐かしい味がします。

563 弥生    よかった。

                     …あ、ちょっと失礼します。(貴雅の額に手のひらを当てる)

                     …うん、熱もだいぶ引きましたね。

564 貴雅    ……ありがとうございます。

                     あ、すみません、立たせっぱなしで…適当に座ってください。

弥生、小さく頷いてベッドサイドの椅子に腰掛ける。

 

565 弥生    …あの、ひとつだけ、お聞きしてもいいですか。

566 貴雅    はい。

567 弥生    あの時、倒れてしまう前、何を言おうとしていたんですか?

                     …謝らないといけないことが、って。

568 貴雅    あ……。

                     その、少し前のことなんですけど、あなたに、声をかけてきた女性がいませんでしたか?

                     それで、ちゃんと伝えてなかった僕の素性とか、一方的にお金を渡されたりとか。

                     僕からきちんと説明するべきだったのに、杉田さんは何も悪くないのに、

                     混乱させて、傷つけてしまって、本当にすみませんでした。

569 弥生    ………正直、たしかにびっくりはしました。

                     でも、その方がおっしゃっていたことも、全て事実だなと思いましたし、

                     私もしばらく気まずくて津田さんのことを避けてしまっていたので。

                     …こちらが何もないと言っても、第三者から見ればそう映らないこともあって、

                     津田さんの立場を分かっていながら、私も軽率だったな、と反省していました。

                     だから、謝らないでください。

                     あのお金も、なんだか申し訳なくてそのままにしてあるんです。

                     今度、お返しさせてください。

570 貴雅    いいんです、そんな。

                     こちら側が、勝手にやったことなんですから。

571 弥生    …津田さんって、意外と頑固なところありますよね。

572 貴雅    え?

573 弥生    普段は温厚で、あまり自己主張が強いタイプでもなさそうのに、

                     自分の好きなこととか信念のためには絶対曲げられない強い意志みたいなものがある人だなと思って。

574 貴雅    …そう、ですかね、なんだか、ごめんなさい。

575 弥生    どうして謝るんですか?

                     私は、そういう確固たる意思ってすごく大事だと思います。

                     たしかに、時としてそれが生きづらさの原因になってしまうこともあるとは思うんですけど、

                     それでも、自分の大事な人や、自分自身、もっと言えば、自分の人生を守るためには、

                     きっと必要なものなんじゃないか、って。

                     私は、あまりそういうものを持たずにぼんやりと生きてきたから、尚更。

576 貴雅    ………。

外では雨が降り始めている。
沈黙の中、かすかに雨音が響く室内。

 

577 弥生    …それじゃあ、私そろそろ戻りますね。

                     勝手に色々と、すみませんでした。

                     今日はちゃんと、(ポケットから自室の鍵を取り出し)鍵、持ってるので(笑)

                     ゆっくり休んで、お大事にしてください。

立ち上がる弥生の腕を貴雅が掴む。

 

578 弥生    …?

579 貴雅    …杉田さん。すみません、今日はもう少しだけ、ここに、いてくれませんか。

580 弥生    …今、お話ししたばかりじゃないですか。

                     もう、軽率な行動は

581 貴雅    (遮るように)まだ……まだ、お話ししたいことが、あるんです。

582 弥生    ……(再び椅子に腰掛ける)

583 貴雅    どう言おうか、ずっと考えていたんですけど。

                     実は…婚約を、破棄したんです。

584 弥生    …え?

585 貴雅    …家とも、絶縁という形になりました。

                     前に、親の決めた婚約者だって話をしましたよね。

                     僕は、今までどうしたって家族っていう背景がついて回って、それがすごく心地悪かったってことも。

                     だからせめて、一番近くにいる人だけは、これから新たに家族になる人だけは、お互いが自然体でいられたらって。

                     そう思って、色々考えて、伝えて。

                     でも、どうしてもそれがうまく噛み合わなかったんです。

586 弥生    ……。

587 貴雅    その背景を含めて僕自身として向き合えるなら、それでいいって思うようにしていました。

                     自分は十分に恵まれているんだから、これ以上は何も望まないようにしようって。

                     でも…やっぱり難しくて。

                     そういう後ろ盾みたいなものが全部なくなった時に、僕自身としての価値はなんなんだろうって、

                     だんだんわからなくなってきて。

588 弥生    津田さん…。

589 貴雅    どうしようもないって、頭ではわかってるんです。

                     現実的に考えて、家族を支えるために僕にできる唯一のことなのに、

                     その家族と縁を切ってまで、あるかどうかもわからない愛とか、充足感とか、

                     そういうことばかりに夢を持つのは馬鹿げてるって。

                     そういうものとは無縁な中で僕も割り切れたら、よかったのかもしれません。

                     ​でも……。

590 弥生    ……でも?

591 貴雅    自分が本当に求めていたものを知ってしまった気がして。

                     …普通なら退屈だって思われてしまうような文学の話とか、日常の本当に些細な発見の共有とか。

                     どんなことに心が動いて、どんな時に悲しくなって、毎日をほんの少し素敵に過ごすためにはどうしたらいい、みたいな。

                     そういうなんでもないようなことをただただ語り合っていられる瞬間が、僕は何より幸せだと感じたんです。

                     …そのことに、ようやく気づかせてくれた人がいたから。

592 弥生    ………。

593 貴雅    地位も権力もなくたって、やさしい言葉を送り合えるなら、それだけで。

                     僕は、僕の人生を見つけたいって。

しばらく無言のままいる弥生。

 

594 弥生    ………津田さん。

                     もしも津田さんの人生に一輪の花が咲くとしたら、それって、どんな花だと思いますか?

595 貴雅    え?

596 弥生    真っ赤なバラと答える人もいれば、太陽に向かってまっすぐに咲くひまわりって答える人もいると思うんです。

                     でも私は、アスファルトを突き破って咲く、タンポポであってほしいって思ってます。

                     部屋に飾られるほどの存在感はないかもしれないけど、

                     毎年春になると、私たちが普段歩く場所に必ず咲いて、季節の訪れを教えてくれる。

                     そんなふうに、大切な人たちのそばに寄り添える存在になりたい、って。

                     …両親と早くに離れてしまったから余計に、

                     今自分の周りにいてくれる人に対してちゃんと感謝しながら生きていきたいって思ったんです。

597 貴雅    ………。

598 弥生    でもある時、そんなどこにでも咲くタンポポを見つけて、立ち止まって、笑いかけてくれる人がいました。

                     タンポポは、自分の足じゃ歩けない。

                     だけど、こんな言葉があるんだよ、こんな世界があるんだよって、知らない世界の話をたくさんしてくれるんです。

                     それが、本当に楽しくて、新鮮で。

                     ずっと、そうやっていろんな世界を旅していたいって思っていました。

599 貴雅    ……僕の人生に、一輪の花が咲くとしたら。

                     花、とは言えないかもしれないけど、僕は、綿毛かもしれないな。

600 弥生    綿毛?

601 貴雅    僕はずっと、自由になりたかったんだと思います。

                     何にも縛られない、僕自身として、好きなことをして、一生懸命に生きたいって。

                     綿毛なら、どこまでも飛んでいけるから。

                     …でも、綿毛は、風がないとどこにも行けないって気づいたんです。

                     せっかくその場に咲いても、四方を壁に囲まれていたら同じ場所に落ちて咲くことの繰り返し。

                     風が吹いて、初めて自分が飛べることを知ったというか。

                     …僕のこれまでの人生を例えるなら、そういう意味で綿毛かな、って思います。

602 弥生    ………お会いできなかった間の1ヶ月くらい、ずっと考えていました。

                     元気にしてらっしゃるかなとか、

                     またいつか、こういう取り留めもないお話ができるようになる日が来るのかな、とか。

                     津田さんがしてくださったお話ばかり、思い出していました。

                     …津田さんは、私にとってきっと、遠い場所からやってきて、ふと隣に落ちてきて、いろんなお話を聞かせてくれた、

                     それこそ綿毛みたいな人だったのかもしれないです。(小さく微笑みながら)

603 貴雅    …そっか。

604 弥生    このお話には少し続きがあって。

                     みんなそれぞれ、生まれながらにして種を持っているけれど、

                     花が太陽の光や水を必要とするように、私たちの心の花にも、なくちゃいけないものがあるんです。

                     …本当に幸福だと思える人との出逢い。

605 貴雅    ……。

606 弥生    そういう人は、この人がいなきゃ生きていけない、ではなくて、

                     この人がいるから自由に自分らしく生きていけるって思わせてくれる人なんです。

                     心が幸せに満たされて、自分でも、もっと自分のことが好きになれるような。

                     …私はそれを聞いて、津田さんのことを思い出しました。

                     私に、「自分を大事にする」ってどういうことなのか、私自身が本当に満たされるものはなんなのかを、

                     教えてくれた人だったから。

                     だから、自分の中に咲く花も、見つけられたんだと思います。

607 貴雅    …だとしたら、僕の中にある花を咲かせてくれたのも、杉田さんでしたよ。

貴雅はそっと弥生の手に自分の手を重ねる。

 

608 貴雅    綿毛は、タンポポが咲くからこそ、生まれる。

                     逆に、綿毛が風で飛ばされるから、また次の春にタンポポが咲く。

                     どちらも本当にささやかだけど、毎年ちゃんと、僕たちの足元を明るくしてくれるものじゃないですか。

609 弥生    (重ねられた手を見つめながら)…はい。

610 貴雅    …だから、これからも杉田さんと、他愛のない話をして、

                     少しずつ、お互いがいいなって思うものを見つけながら、過ごせたら、って思うんです。

611 弥生    …(静かに頷く)。

                     私は、津田さんと出会ってまだ、秋と冬しか知らないですけど、春も夏も、一緒に過ごしてみたいって、思ってます。

静かに微笑み合う貴雅と弥生。

 

612 貴雅M  雨の夜、静かに紡がれた2つの気持ちは、それからの月日の中をゆっくりと過ぎ去った。

                       甘い香りを広げるバラも、一斉に太陽の方を向くひまわりも、

                       一面に咲き乱れる秋桜(コスモス)も、部屋に飾られたノースポールも素敵だけれど、やっぱり_________
 

613 弥生    あ、今年も咲いてる。

しゃがみこんで地面を見つめる弥生。
貴雅が小走りで駆け寄ってくる。

 

614 貴雅    弥生さん、お待たせ。

615 弥生    貴雅さん、見て、ほら。

616 貴雅    …あ、今年も咲いたね。

617 弥生    もう春かぁ。

618 貴雅    春ってどうしても桜のイメージだけど、やっぱりタンポポな気がしちゃうんだよなぁ。

619 弥生    お花見に行っても、ついタンポポに目がいっちゃうしね(笑)

620 貴雅    そうそう(笑)

621 弥生    …今年も一緒に見られて、よかった。

622 貴雅    (微笑む)うん。
 

623 貴雅M      人はしばしば、人生の幸福について考える。

                        有り余るほどの富を得ることが幸せと考える人もいれば、

                        毎日を何事もなく平凡に過ごせることが幸せだという人もいる。

                        僕は、あの日君が教えてくれたように、自分の中の花を咲かせられる人生が、最も幸福なんじゃないかと思う。

                        その花を、一緒に育てあっていける相手に出逢えたのなら、尚更。

                        一年が巡れば、花はまた、新たな命を芽吹かせる。

                        そうやって、なんてことない日々を、大切に、大切に、生きていくことができたなら、

                        それはきっと、世界に一つだけの、かけがえのない花束になるはずだから。

2021.7.1 公開

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